曖昧さを味わう

空を見上げれば、晴天だ。こんないい天気の日には会社に行かず、散歩をしたい。

更に言うなら、そのまま遠くへ出かけて温泉に浸かりながら岡倉天心の「茶の本」をでも読んで過ごしたい。

 

今の仕事場には味わいが足りないのだと思う。

プログラムは論理的に曖昧なところがあると、動かない。設計段階で曖昧な点は排除しなければならない。

 

プログラムのような職場だ。

if分で書かれたプログラムは完全に挙動が予想できる。それと同様に、上司に仕事のスケジュールや進捗報告をするときには、自分が進められるところ、進めないところをはっきり線引きした上で、ゴールを設定しなければ、完了とみなされない。曖昧さは許されないのだ。

 

一方、人間はどうだろうか。曖昧なところだらけである。

私は人間だ。本来、精緻な報告や仕事には向いていない。仕事に気乗りしない日もある。感覚で考えが変わることもよくあるのだ。

 

ところで、美しいものには、曖昧さがあると思う。

完全に手に取るようにわからないからこそ、想像を掻き立てられる。

よく、ミロのヴィーナスは不完全であるからこそ美しいのだと言われる。サモトラケのニケもそうだ。茶道における茶室も、アシンメトリーに作られる。完全な均衡は美しくないのだ。

 

味わうためには、雑念を排除して、じっくり時間をかけた方が良い。

 

最近は、銭湯に凝っている。

長い時間をかけて体を温め、水風呂に浸かり、心と体を解放するのだ。

銭湯からの帰り道は不思議と、唐揚げ屋に立ち寄って、立ち止まってゆっくり味わうことができる。

唐揚げを頬張っているその間、自分の頭からは仕事が消え去る。

 

完全を求められる職場にいるからだろうか、不完全なものに魅了される。

私はコーヒーを味わうことが好きだ。

生豆を焙煎し、抽出することで味わいを引き出す。しかしどの焙煎度を取っても「完全なる美味しいコーヒー」は存在しない。

美味しいコーヒーの前には人間の舌の感覚があるのみ。

 

美味しさの正解が完全に定義されるようになったら、それほどつまらないものはないだろう。

 

 

仕事には正解が完全に定義されうる。正解というより、理想といったほうが語弊がないか。それゆえに理想論が職場の人間により振りかざされ、弱い者が淘汰されて行く。

 

なんと、味気ない世界だろうか。